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室津港室津港のあれこれ

室津港の事業紹介



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 室津港における直轄事業は、防波堤(Ⅰ)の整備から始まりました。防波堤(Ⅰ)は昭和55年度から着手し、昭和57年に消波ブロック等の製作を開始しました。昭和60年10月には現地の築造工事に着工し、平成30年度末までに718mが延伸完了しています。
 以前は、ケーソン製作を内港に係留したフローティングドッグ(※)で行っていましたが、狭い内港での製作工事は一般船舶の航行に支障をきたし、時期の制約を受けることもあり施工効率も上がらない状況でした。そこで、平成11年度からケーソンや消波ブロック製作用の作業ヤードの建設に着手し、平成19年3月に完了しました。これにより、施工性が向上し、防波堤整備を効率的に行うことが可能となり、現在は早期に避難港としての役割を果たすべく、防波堤の整備を行っています。
※フローティングドッグ…ケーソンを製作するための特殊な作業船です。船体内に海水を取り込むことによって沈み、海水を排水すると浮きます。この仕組みを利用して、甲板上で製作したケーソンを海面に浮かせて進水させます。

室津港の歴史

平安時代
「土佐日記」
むろつの泊まり
 西暦930(延長8)年に国司として土佐に赴いた紀貫之は、4年間の任期を終え、934(承平4)年に京に帰る船出をしました。この帰京の旅を書いたのが有名な「土佐日記」です。
 この「土佐日記」によりますと、紀貫之一行は室戸岬が回れずに室戸の津に10日間も留まっています。
 当時の旅程でも土佐〜京都間は陸路で上りが35日、下りが18日、海路が25日となっていました。しかし、貫之一行は海路に55日間も要しており、このうち、10日間も室戸の津で足止めされていたことから、当時から室戸岬が海路の難所であったようです。
江戸時代
室津の堀港の
始まり
 室津港を最初に掘ったのは最蔵坊という人です。最蔵坊は1,629(寛永6)年に室津の堀港に着工しています。
 その後、野中兼山の手により工事が続けられました。そして、兼山の命を受けた一木権兵衛に引き継がれ1,667(延宝7)年に現在の内港が完成しました。室津は荒磯の堀港で、工事は困難を極め、その築港技術は当時としては群を抜くものであったようです。
 野中兼山の時代に室戸岬をはさんで、津呂、室津、佐喜浜の三港が修築されました。このことは、当時始められた捕鯨業に不可欠のものでした。そして、鰹漁をはじめとする漁業を興し、県下有数の漁業集落を形成させたのです。
明治時代以降
 急激な海運、および漁業の発展による船舶の増加と船型の大型化に伴い大がかりな改修の必要に迫られたのが大正時代です。大正13年に外海への拡張工事に本格的に着工し、数回に及ぶ災害を克服し、昭和19年に現在の前港が完成しています。
 昭和27年からは避難港としての整備を始め、昭和46年に避難泊地を完成しました。

バナースペース

高知港湾・空港整備事務所

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