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進取の気性で歴史を刻む 八幡浜港

海を巡る男たちの熱い生き様
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商都「伊予の大阪」として繁栄
八幡浜港周辺の地図 四国の西の玄関口・八幡浜は、四国西端に突出する佐田岬半島の基部に位置し、宇和海に面する港町だ。かつての海岸線は現在の市内中心部にあり、平地と呼べる場所はわずかしかなかった。当然のように人々は住むことの出来る場所を求めた。そして、市内を流れる新川の土砂が流出してつくった三角州を土台として、絶えず埋立工事を行い、海岸線は現在の場所へと移った歴史がある。
 近年は「日本一美味しい」みかんの生産地として、また西日本有数の規模を誇る中間トロール基地として、産業の中心を第一次産業が担っている。だが、かつてのこの町では、九州や京阪神に近いという地の利を活かして、綿糸や綿布の取引が盛んに行われていた。つまり完全な商都だったのだ。当時、この町が「伊予の大阪」と称されていたことからも、その繁栄ぶりがうかがえる。そしてこの港町からは、多くの偉人が誕生した。

大偉業を成し遂げた進取の気性
現在の八幡浜港の写真 この八幡浜の海は、国内と結ばれていただけではない。八幡浜では明治時代の始めより、多くの若者が夢を抱いてはるかアメリカを目指したという。その先駆けとなったのは、アメリカへと渡航し、成功をおさめた末に明治10年(1877)に帰郷した西井久八だ。また五反田の菊地増一郎は明治34年(1901)に移民として渡航。鉄道建設の請負やメロン農場の経営などで成功をおさめて、昭和5年に帰国し、五反田で生涯を終えた。
大正末期の八幡浜港の写真 こうした正規の渡航とは別に、密航によりアメリカを目指す若者も後を絶たなかった。大正2年(1913)には、西宇和郡真穴村(現八幡浜市)の若者15人がアメリカに向けて出港。彼らは長さ約15メートル、重さ50トンの打瀬船に乗りこんだ。北針(きたばり)と呼ばれる木枠の磁石を頼りに、伊豆大島から日本海流に乗った航海は、まさに死と背中合わせの危険をはらんでいた。この無謀とも言える旅の途中には、幾度となく暴風雨に見舞われ、沈没の危機にさらされた。しかし苦境を乗り越えた一行は日本を発ってから58日目、ついに憧れの地、アメリカ、サンフランシスコ北のアレナ海岸に到着する。距離にして1万1000キロの移動――まさに大偉業であった。
打瀬船の写真 残念ながら数日後、一行は密航者として日本へ強制送還された。だが、わずか50トンの小船で太平洋を横断し、勇躍新天地へと向かった15人の行動は、全米の新聞に「コロンブスのアメリカ発見にもあるまじき奇蹟なり」と報道された。また、そのことは真穴村の地元民にも勇気を与え、翌年、翌々年と夢を求める多くの若人たちが航海に挑んだという。そして、現実にアメリカで一旗揚げる者もかなりの数に上ったそうである。この話は「北針物語」として、八幡浜市民の間で語り継がれている。
 もう一つ、八幡浜の先人を語る上で、忘れてはならないのは二宮忠八(1866〜1936)だ。忠八は1891年、アメリカでライト兄弟が飛行実験に成功する12年前に、現代の飛行原理へと繋がる日本で初めての動力「飛行機」を飛ばした。

九州への玄関口として
フェリーの写真 いにしえより八幡浜という町は、海を介した他者との交流の中から、発展を成し遂げてきた。現在も八幡浜港は「交流の港」としての性格が強い港だ。それは昭和39年から運航を開始した臼杵港との間を就航するフェリーボートに負うところが大きい。当初は1日2.5便だったフェリーも、現在は臼杵間14便、別府間6便に増便。九州と四国を結ぶ重要な港としての役割を担っている。また港湾取扱貨物量の増加、入港船舶の大型化にともなって、昭和51年からは港湾再開発事業がスタート。大型岸壁、ふ頭用地、緑地などの機能整備が進み、対九州の玄関口にふさわしい機能を備えている。
 決して豊かな自然の恩恵だけに甘んじることなく、交渉力や行動力を発揮して町の基盤をつくり出してきた八幡浜の人たち。15人の若者や忠八、そして現在の八幡浜市民に共通しているのは、常に新しい事を求めてやまない進取(さきどり)の気風だ。そしてそんな人物たちを生み出したのは、やはり八幡浜が港町として「外に開かれた町」であり続けるからなのだろう。